dimarts, 26 d’abril del 2011

ラモンのルンバ史講座-後編

©Kan Kanbayashi
-Los Manolosロス・マノロスについて少し話してもらえますか?

ロス・マノロスは、いくつかのロック・バンドが集まってできたものなんだ。みんな小さい頃からの幼なじみのグループだったからね。私たちの世代は、もちろんペレのことはみんな知っていたけど、ルンバなんて聞いてる人はほとんどいなかった。でも、仲間内にオスタフランっていうヒターノが多い地区出身の奴がいたからルンバも聞いたりしてて、ほんの冗談でルンバをやってみたのが始まりだった。

ルンバっていうのは、元々オリジナル曲を作るんじゃなくて、すでにある曲をルンバにアレンジするっていうものだ。自分たちはビートルズが大好きだったから、「ビートルズをルンバでカバーしたらどうかなるか」って思って作ったのが、All My Lovingオール・マイ・ラヴィングっていう一番最初の曲。衣装は70年代の大きな襟のスーツにベルボトム、サングラスともみあげ。時代遅れだっていうのがわかって、敢えてそうしたんだ。だって、本当に冗談だったんだからね。ところが、予想に反してすごく売れちゃったんだよ。


ちょうどロス・マノロスが売れた頃には、もうある程度スペインの民主化も落ち着いてきていた。だからこそ、カタルーニャ人たちが初めて「ルンバ・カタラーナを、自分たちの歴史の一部として見てもいいんじゃないか。」「ルンバ・カタラーナはカタルーニャの文化のひとつじゃないか」って考えるようになったんだ。それで市や州といった行政機関も、ルンバに興味を示し始める。 

フランコ政権がカタルーニャ文化を否定してきた反動から民主化が始まると、「カタルーニャはスペイン属してはいるけれど、固有の文化を持っている民族だ」というような主張がされるようになり、カタルーニャ性を再び回収するというか、再び自分たちのものにしていく作業が行われるようになっていたからね。 

また一方で、92年のバルセロナ・オリンピックは、カタルーニャの政治家にとって、スペインの中には固有の文化を有するカタルーニャというものが存在しているというのを、世界に向けてアピールする絶好のチャンスだった。


そういった状況の中で、ルンバ・カタラーナは、カタルーニャのものではあるけれども、歴史的にフラメンコの一部でもあるから、スペイン側からの反発をそれほ ど受けることなく、オリンピックと上手い具合に結びついた。なおかつフェスタ、いわゆるお祭り的な踊れる賑やかな音楽だったからね。こうして、オリンピックを契機にルンバが復活したんだ。

もう一つ、80年代末からの世界的なワールド・ミュージック・ブームが追い風になったという点もある。ルンバ・カタラーナも、ワールド・ミュージック、民族音楽なんじゃないかってことにみんな気がついたんだ。ブームの中でケルト音楽やアフリカ音楽に注目しているうちに、自分たちにも民族音楽があるっていうことを再発見をしたっていうわけさ。

オリンピックの後5年位の間ルンバは再び低迷期に入ったんだけど、下がり切って底を打った頃に、Ojos de Brujoになどメスティサヘの動きの中でルンバを評価する人たちが出て来た(メスティサへについてはこちらを参照ください)。

また、Manu Chaoマヌ・チャオが『La Rumba de Barcelonaラ・ルンバ・デ・バルセロナ』っていう曲を出したのもすごく大きいね。これでバルセロナにルンバがあることを知った人も多いからね。彼がバルセロナに引っ越してきたことで、ルンバがまたひとつ階段を上がったというか、新しいステージに入ったというところはある。


マヌ・チャオがやってるのは純粋な意味ではルンバではなくてフュージョン、いわゆるメスティサヘ。でも、メスティサヘだからこそ、若い人たちにとってはとっつきやすかった。また彼は、オーセンティックなルンバ・カタラーナとは別の形でルンバ・カタラーナができることを提示したとも言える。マヌ・チャオを介してルンバがメスティサヘと結びついたことで、裾野が広がったのは間違いないよ。

ガト・ペレスはシンガーソングライターとしては優秀な人だったけれど、商業的な面で成功するところまではいかなかった。一方で、マヌ・チャオは、すでに注目を浴びていたミュージシャンだったから、彼がルンバ・カタラーナを扱った影響力というのはすごく大きい。キューバ人じゃないけど、有名なライ・クーダがキューバのソンという音楽に興味を持って、Buena Vista Social Clubブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを取り上げたら世界が注目したのと同じだね。 
(前編はこちら 

こちらがルンバ・カタラーナのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブことPatriarcas de la Rumbaパトリアルカス・デ・ラ・ルンバ(こちらも参照ください)。

ラモンのルンバの歴史いかがでしたか? 私がルンバに音楽の一つのジャンルとして以上の思い入れを持つようになったのも、その歴史がルンバを生み出して育んできたカタルーニャの歴史と密接に関係していることを知ったのがきっかけでした。そもそも音楽も歴史もともに人間が作るものなので、その両者が歩みを共にするのは当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、ルンバの場合まだ歴史が浅いこともあって両者の関連がはっきりと目に見えるので、本当に興味深いです!! 現在のカタルーニャやバルセロナの在り方が、今後のルンバの発展に影響するかと思うと今からわくわくしてきます。 

dimarts, 19 d’abril del 2011

ラモンのルンバ史講座-前編

ペレのインタビューに立ち会ってくれたRamon Grauラモン・グラウは、Los Manolosロス・マノロスのドラマーとして90年代のルンバ黄金時代を過ごした。ペレに続くルンバの第二世代に属する人物だ。現在もルンバ・カタラーナの情報サイトCalarumbaカラルンバの管理人、バンドRumba Tarumbaルンバ・タルンバのドラマーとしてルンバに変わらぬ情熱を傾けている。そんな彼にルンバの歴史を語ってもらった。

©Kan Kanbayashi
-現在、若い人たちにルンバ・カタラーナが注目されているようですね。
とは言っても、実際のところはバルセロナでも、思ってるほどみんながルンバ・カタラーナを聞いてるわけじゃない。ここ数年注目を浴びてはいるけど、シャキーラみたいにみんなが聞いてる音楽ではないね。いろんなジャンルの音楽がある中で、一つのジャンルとして聴かれている。
-再注目されたきっかけはなんですか?
ルンバの歴史はは浮き沈みを繰り返しているから、少しルンバの歴史をさかのぼってみようか。まず、ペレやLos Aamayaロス・アマヤの活躍で60〜70年代にルンバ・カタラーナは最初の全盛期を迎える。この時代はフランコの独裁政権下だったんだが、フランコはスペインの文化をアピールすることに熱心で、スペイン文化を代表するものの一つとしてフラメンコを優遇していたんだ。

その当時はまだルンバ・カタラーナという名前では呼ばれておらず、ペレがやっている音楽はフラメンコの一部として受け止められていた。だから、ペレが広く一般大衆に受け入れられたのも、ある程度はフランコの優遇措置の恩恵という側面があるんだ。
ところが、カタルーニャはカタルーニャ語の禁止を始めとして、フランコ政権にはひどい目にあわされているから、やっぱりフランコに対してはアンチなんだよね。だから、ルンバ・カタラーナがフランコと結びついてしまったことによって、ここカタルーニャではルンバ・カタラーナに対する嫌悪感みたいなのが生まれることになった。
こうして、70年代の終わりにカタルーニャにおいて、人々の気持ちがルンバから離れていった時に、los Chichosロス・チチョスとかLos Chunguitosロス・チュンギートスの登場で、今度はマドリッドでルンバが盛り上がった。彼らのルンバはKinkyキンキと呼ばれる犯罪者の若者と結びついてたことから、ルンバが犯罪者の音楽とみなされるようになる。
そんな風だったから、その頃10代だった私もルンバに対して抵抗があって、ほとんど聞いてなかった。「ルンバは古いものだ」という感覚もあったし、80年代はみんなローリング・ストーンズやビートルズを聴いていて、ルンバには目もくれていなかったよ。
このルンバが忘れ去られていた80年代に、アルゼンチン生まれのGato Perezガト・ペレスが現れる。彼が忘れ去られたカタルーニャのルンバを再発見して、中にいる人、つまりカタルーニャの人々が知らなかった事実、ルンバがバルセロナ生まれの音楽だってことに最初に気づいたんだよ。だから、現在ルンバ・カタラーナが、ひとつの音楽ジャンルとして確立しているのは、ガトのおかげというわけさ。

また、ガトはとても頭が良かったから、『ルンバ・カタラーナはバルセロナの音楽』というのを理論で伝えるんではなく、歌詞の中に取り込んで伝えるという手法を取った。例えば『Rumba de Barcelona』はルンバの定義付けたものだし、『El Ventilador』はベンティラドール奏法を歌ったものだというようにね。それまでルンバの歌詞っていうのは、ジョークとかふざけたものが多かったんだけど、ガトがルンバの歌詞に文学性を持ち込んだんだ。
ルンバ・カタラーナの歴史をロックの歴史に喩えてみると、ペレはルンバ・カタラーナのエルヴィス・プレスリー。ペレのもう少し前の世代でベンティラドールを発明したとも言われるペスカィーヤがチャック・ベリー。チャック・ベリーが始めた音楽をエルヴィス・プレスリーが広めただろ? ペスカィーヤとペレの関係はそんな感じだ。
そして、フォークになった時に歌詞に文学性を持ち込んだボブ・ディランがガト・ペレス。アコースティック・ギターがメインだったルンバに、エレキを持ち込んで完全にロックの編成でルンバを演奏したロス・マノロスが、セックス・ピストルズみたいなもんだね。  
反フランコからカタルーニャでは一種のタブーとなっていたルンバを救い上げたのは、ガト・ペレスなんだけど、実際にはそんなにアルバムも売れず注目も集めなかった。その後、ロス・マノロスが商業的に大成功したことによって、そのタブーが解かれて、カタルーニャでもルンバ・カタラーナが再び聞かれるようになったんだ。
後編に続く)

*ルンバの歴史についてはこちらの記事もご参照ください 。

dimarts, 12 d’abril del 2011

Peretペレが語る音楽人生-後編

©Kan Kanbayashi

-バルセロナとルンバ・カタラーナの関係について話してもらえますか?

バルセロナとルンバ・カタラーナの間には強い繋がりがあります。ルンバ・カタラーナはこの地で生まれた土着の音楽ですから。だから、ルンバ・カタラーナの中にカタルーニャの伝統的な煮込み料理を歌う歌があり、ブティファラ(ソーセージ)を歌う歌なんてものもあるんです。「僕のお母さんは僕たちに、エスクデーヤ(煮込み料理)を作ってくれた。汗をかきながら。ママ、なんて素晴らしい!」。  

また、
ルンバはヒターノのものだからヒターノについても歌っています。ランブラス通り(訳注:バルセロナの中心街にある遊歩道)について歌った歌や、バルセロナの地区について歌った歌など、もちろんバルセロナを歌ったものもたくさんありますよ。キューバ人がバルセロナにやってきて、ブティファラを食べて、パンコントマテ(訳注:トマトをなすり付けたパンに塩とオリーブオイルをかけるカタルーニャ発祥の食べ方。好みに応じてにんにくを加えてもOK)を食べて、ヒターノと一緒にルンバ・カタラーナを踊るっていう歌もあるんですよ。  

ルンバ・カタラーナはリズムから生まれました。それはロックからきたリズムで、そこには全く目新しいものはありません。ロックのリズムだってもっと以前からあったんですから。
キューバの偉大なミュージシャンで、ペレス・プラドというマンボの奏者をご存知ですか? ルンバのギターのリズムは彼のトランペットを真似たものなんです。ペレス・プラドがそれをどこからもってきたのかわからないけど、私は彼をとても尊敬しています。実は、アメリカで一緒に演奏したことがあるんです。彼のテレビ番組に参加して、尊敬していた人たちと一緒に演奏ができたんですよ!!

-ルンバはつねに人々から愛されてきたんですか? 

スペインでも消えたり浮いたりしてきましたよ。私は引退して10年間教会に入っていたことがあるんです。ちょうどオリンピックの前のことです。復帰した時には、ロス・マノロスというグループがルンバのヒット曲を生み出していました。「ぜひオリンピックの閉会式にでてほしい。誰と一緒にやりたいか」と聞かれて、ロス・マノロスとジプシー・キングスとやりたいと言いました。結局、ジプシー・キングスは来れなかったので、ロス・アマヤスが出ることになったんです。 

自分が不在の間も次の世代のミュージシャンが、ルンバが消えないように演奏を続けていてくれました。そのおかげでルンバが若さを取り戻したんです。だから、世代を越えてやっていくというのは、すごく重要なことだと思っています。いまクラスをやっているのも、若い世代を育てるためです。
-ルンバはこの先もずっと、100と200年と続いていく音楽だと思いますか?
もし私が今やろうとしていることが成功すれば、生き続けるでしょう。でも、小さな問題があるんです。名前が変わってしまったと言ったらいいでしょうか。サルサはご存知でしょう? 自分たちがやっているのはルンバ・カタラーナだと言って、サルサをルンバ・カタラーナと称して演奏している人たちがいるんです。若い世代の中には、サルサをルンバ・カタラーナだと思っている人もいます。

サルサを好きな人がルンバを演奏すると、どうしてもその影響が大きくなってしまう。それはしょうがない面もあるけど、問題でもあります。だから、今私がやらなきゃいけないのは、サルサとルンバをきっちりわけること。何がルンバ・カタラーナなのかということをはっきりさせて、紹介していかなきゃいけないと思っています。
-日本に来る予定はないですか?
本当は中国にいく予定があったんですけど、遠すぎるから断ってしまいました。日本がもう少し近くに来てくれればいいんですけど(笑)。飛行機があまり好きじゃないしこの歳では旅は難しいね。小さいひ孫たちをおいて旅に出るのがはばかられるんですよ。これから自宅に戻ってパソコンの前に座ると、ひ孫たちがよってきてキスしてくれる。それが私の現在の生活で、それが今は一番大切です。
(前編はこちら
ヨーロッパの国別対抗歌合戦ユーロビジョンにスペイン代表として登場したときのペレ。生きる歓びを歌った「Canta y Sé Feliz(歌って幸せになろう)」というこれまたルンバらしい一曲です。



こちらがバルセロナ・オリンピック閉会式の映像で、歌っているのは『Gitana Hichicera(魅惑的なジプシー女)』。インタビュー中に出てくるバルセロナを歌ったルンバの一つで、女性になぞらえてバルセロナの魅力を歌ったものです(オリンピックに関してはこちらの記事も参照ください)。ちなみにこの曲を意識して作られたと思われるのが、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』の主題歌Giulia Y Los Tellariniの『Barcelona』。


このインタビューで個人的に印象に残ったのは、彼が自ら修道院に引き篭もった時期の話をしたことでした。というのも、この時期に関する質問はタブーだと聞いたこと があったからです。音楽から離れた時期も含めて自分の音楽人生を丸ごと受けとめているからこそ、ペレは「やり残したのは、若い世代を育てることだけ。」と 言い切ることができるんでしょうね。

dimarts, 5 d’abril del 2011

Peretペレが語る音楽人生-前編

エルビス・プレスリーとペレス・プラドに憧れる若きペレが、最初のレコーディングをしたのは今から50年前のこと。ルンバの王様と呼ばれる彼の半世紀はそのままルンバ・カタラーナの歴史とも言えます。
エココロ取材班がバルセロナにやってきたのは、ちょうど彼がルンバ・ギター教室の主任講師を務めている期間にあたりました。このギター教室は、FORCATが次の世代にルンバを伝えていく目的で、リセウ音楽学校の協力の元10月に開講したもの。というわけで、FORCATの協力の元、このギター教室にお邪魔してペレに会ってきました。

©Kan Kanbayashi
-生まれはバルセロナですか? 

そう、バルセロナです。生まれたのはマタロ(バルセロナから30分くらいのところにある海沿いの町)だけども1ヶ月後にはバルセロナに来ました。母は15歳で私を生み、私も若いときに16歳の妻と結婚しました。ヒターノは結婚がとても早いんです。今でもヒターノは若くして結婚するんですが、勉強の機会を失ってしまうから、あまりいいことではないと私は思っています。

勉強というのはすごく大切で、必要なことだと思っているんです。学ぶためには、まず素晴らしい家族、そして学校がなければいけない。また、通りで学ぶこともあるでしょう。私は学校に行かれなかったので、通りの看板を見ながら読み書きを学んだんですよ。
幼少時代はラ・セラ通りの傍にあるサルバドール通りで過ごしました。私の両親は衣服の行商人でいつも旅をしていましたから、パルマ・デ・マヨルカ、イビサ、プチセルダ、ビックと転々としながら育ってきました。
-そうした環境の中に自然と音楽があったんでしょうか?
概して私たちヒターノは音楽と一緒に生まれるんです。どんな国、どんな場所にいてもそれは同じです。例えば。私の孫はお腹の中で音楽を聞いている。娘が妊娠していた91年頃、私はChipénチペンとRamunetラムネののアルバムのプロデュースを担当していて、そのレコーディングに娘もコーラスで参加していたんです。

私も幼いときからサルバドール通りで、子供たちのグループでギターを弾いていました。11歳からギターを弾き始めたのですが、それは誰から教わったわけでもなくて、自然に覚えました。ギターが弾けるようになって最初に弾いたのがフラメンコです。そのうちにフラメンコの踊り手たちが「ペレのギターで踊りたい」と言って来るようになりました。というのも私のギターは、ギターそのものの腕がどうこうというよりも、一緒に踊りたくなるようなギターなんだそうです。

私はいつも歌い手を見ていて「どうしたらこの人が上手く歌えるだろう?」って考えながら弾くから、歌い手もそれをわかってくれるんですね。素晴らしい腕の巨匠の人たち、私よりも演奏の上手い人はたくさんいる。でも、歌い手も踊り子もペレがいいと言ってくれたんですよ。だから、ミュージシャンにとっては、一緒に演奏する人たちをちゃんと見て、どうしたら彼らが気持ちよく歌えるかを考えることが大事だと思っています。

その当時、最も素晴らしいギター奏者がニノリ・カルドという人でした。1回演奏するのに、500ペセタ(現在の3ユーロ程度)私たちは150ペセタ(1ユーロ)。あるフラメンコダンサーが私のギターを気に入ってくれて、3000ペセタを払うから一緒にやってって言われました。彼女の夫は「なんでこいつに3000ペセタも払うんだ」って言ったんですけど、「私が彼とやりたいの」って。

観光客向けのタブラオでギターを弾いていたときのことで、「今年もっとお金が稼げないのなら、私はここを辞めます」と言ってギャラの値上げ交渉をしていたんです。オーナーはギャラを上げてくれたけど、十分な額ではなかった。それで、私に残って欲しいと歌い手たちが差額を払ってくれたんです。

私自身も現在、必要であればミュージシャンに幾らでも払います。一緒に演奏するミュージシャンが私をいい気持ちにさせてくれるなら、自分たちが一緒に演奏していて心地よいのなら、それに金額はつけられません。それは容易いことではないから。すばらしい音楽家はいくらでもいるけれど、相手を尊重していい部分を引き出し合える、相手と一緒に上手くやれる人っていうのは少ないから。
-音楽もコミュニケーションとういうことでしょうか?
そうです。コミュニケーション手段だから、上手い人もいれば下手な人もいる。歌い手と一緒にやっている時に歌い手をよく見る。自分が音出すのは歌い手を助けるためなんですから。これは個人的な音楽精神です。私はギターソロをがんがんやってっていうスタイルをやりたくない。そういうギタリストよりも、一緒にやって2人でひとつのものが作れるというほうがいい。

演奏する場所っていうのはいつも違っていて、音響がいい場所もあれば悪い場所もある、小さい場所もあれば、野外の時もある。だからステージ上で私の手が指揮者の役割をする。一緒にやってる人たちはその合図をわかっているんだ。

バンドは家族そのものです。家族じゃなきゃいけない。でなければ、なんの価値もないんです。お行儀よくやっていてもだめなんです。私たちの音楽は、みんながひとつにならなきゃいけない。全員でひとつのものをやらなきゃいけない。みんなが家族なんです。

ルンバカタラーナは、ステージがあってお客さんがいるというのではなくて、輪になってみんな一緒になってやるんです。それがすごく重要なんです。もしそうじゃないと上手く見渡せないし、コミュニケーションがうまく取れないから。

ミュージシャンは演奏している時に、譜面を見ていちゃいけない。私の足を見るんです。私の足ももうひとりの指揮者ですから。相手がどういう気持ちでいるのかをわからないといけない。元気があれば力強い音、疲れているならゆるい音にしたほうがいい。つねに相手を見るんです。私はもうおじいちゃんなので、みんな優しく扱わなきゃいけない(笑)。
後編に続く )



「先生、水で太るんです。嘘じゃありません。僕はなんにも食べてないんですから…」と言い訳ばかりの肥満患者が主人公のユーモアに溢れたルンバ・カタラーナらしい一曲です。2007年発売の『Que Lebante el Dedo』より。