dimarts, 30 de març del 2010

ルンバ講座5『叩くことから始まるルンバ』

さて、ベンティラドール、パルマとご紹介してきて、おわかりいただけたと思いますが、なんと言ってもルンバの基本は「叩く」ということです。
ベンティラドールの誕生について「航海中にキューバ船乗りが退屈して、船に紛れ込んでいたギターを持ち出したものの、弾き方がわからないから叩くしかなくて、そうこうしているうちにベンティラドールが生まれた」なんて話もあるほど。

2回でも触れたとおり、 ルンバ・カタラーナはヒターノ共同体の中で生まれて発展してきました。 結婚式やパーティで演奏される祝祭のための音楽として、ヒターノの共同体の中であっという間に広まります。とにかくみんなで踊って楽しく過ごすための音楽なので、場が盛り上がってきてみんながそろそろ踊りたいなと思い始める頃に、自然と演奏が始まるのがルンバなのです。 
 
ヒターノで元ペレのパルメロ、現在PAPAWAパパウワを率いるPeret Reyesペレ・レイエスは「ルンバを始めるためには必要なものは何もない。」と言います。食事が終わって一服していると、誰かが目の前のテーブルを叩き始める。これがルンバ開始の合図。そのリズムにみんながパルマで参加し、そのうち誰かがギターを持ってきて…。とこうして、ヒターノのルンバは始まるとのこと。

つまりルンバとはあくまでもリズムのことだから、叩いてリズムを生み出せるものがあればそれだけでOKってことなんですね。そして、何を隠そうこのペレ・レイエスはテーブル使いの達人。


何度かラ イブで見たのですが、これが本当に普通のありふれた正方形の木製のテーブル。ここまでいくと立派な楽器ですよね!!

叩くことが基本のルンバでは、ライブ会場にパルマを叩きにやってくる観客がいるのもおもしろいところ。何人かのグループでやってきて、ライブ中ずっとパルマを叩いている人たちが必ずいるんです。踊るとともに叩くというのもルンバの楽しみ方の一つなんです。
最後にペレの「Tócale las palmas(パルマを叩け)」をお楽しみください。

dimarts, 23 de març del 2010

ルンバ講座4『ペレと学ぶパルマ』

今回は、ペレの新作『De los cobardes nunca se ha escrito nada』に収録されているドキュメンタリーをちょっと拝借して、ベンティラドールを核にしてルンバ・カタラーナが完成するまでの道のりをご紹介したいと思います。
まずはルンベロが立って演奏するようになった理由を語るペレから。

座って演奏しながらギターを回していたら、ある男性に言われたんだ。その男性が誰だかは言えないけど、今も健在だったらこの場を借りてお礼が言いたいね。というのも「どうして立ってやらないんだい?そうすればもっと成功するのに」って言ったんだよ。そのときは冗談じゃない。そりゃそうだけど、そんなに簡単じゃないって。立ってギターを支えながら演奏すると同時に、歌ってステップを踏むなんて。そんなの無理だって思ったよ。今はあの時の男性にお礼が言いたいよ。「あなたは100%正しかった」って。


 
上の映像でご覧いただいたように、こうして立ち上がったルンベロを、脇から支えるのがPalmaパルマ(手拍子)を担当するPalmeroパルメロです。彼らは二人一組になって、表と裏で別々に拍を取りタカタカというリズムを刻むパルマを打ち鳴らしながら、コーラスにJaleoハレオと呼ばれる掛け声を交えてルンバを盛り上げていきます。こうして完成したルンバ・カタラーナの原型ーギター一本にパルマというこれ以上はないシンプルな編成から生み出されるリズムの豊かなこと!

次は、パルマの思い出を語るペレ。
あの頃はマドリッドまで行くのに、飛行機なんか使わずに車で行ったんだ。バルセロナを出る頃、さあ始めるかってパルマを叩き始めて、マドリッドに着いてもまだパルマを叩いてる。そして本番。次の出番が遅れてるからもう少し続けてって言われてさらに叩く。何時間も何時間も、とにかくパルマを叩き続けたんだ。あれは本当にいい練習になったよ。



こうして見ると、手拍子も立派な打楽器なんですよね。

ちなみに、立って演奏するためにはネックの上の方を持たなければならないので、押さえられるコードが限られてしまうため、ルンバの曲の多くは3つ程度のコードで演奏できるそうです。これぞ究極のミニマリズム!

dimarts, 16 de març del 2010

ルンバ講座3『ペレと学ぶベンティラドール』

さて、ルンバ・カタラーナの核とも言えるのが、Ventilador ベンティラドールと呼ばれる独特のギター奏法です。このベンティラドールの生みの親については議論が分かれるところ。前回ご紹介したエル・ペスカイーリャの父ゴンザレス家のアントニオというのが有力説の一つですが、その真偽のほどは定かではありません。あらゆる民衆文化と同じように、誰かがある日突然発明したというのではなく、共同体の中で少しずつ出来上がっていったというのが一番真相に近いようです。

スペイン語で扇風機を意味するこの奏法の最大の特徴は、ギターがメロディーを奏でると同時に全体のリズムを決めるコンパスの役目をすること。弾いた弦を返すその手で本体を叩くという動作を繰り返すことで、ギターがメロディー楽器とリズム楽器の役割を同時に果たします。ルンバ・カタラーナを演奏する人のことをRumberoルンベロというのですが、ルンベロにとって最も重要なのがこのベンティラドールの技術です。

では、若き日のルンバの王様Peret ペレによるベンティラドール講座で、彼の素晴らしい技術をお楽しみください。


ペレ師匠の説明によると、曲に合せてベンティラドールをアレンジしていくので、一曲一曲毎に異なるベンティラドールがあり、何にでも使えるベンティラドールというのはないそうです。叩く場所によって音を変えるところは、打楽器そのものですよね。
  
また、ルンベロは主に立ったまま演奏するにもかかわらず、ロックのギタリストのようにストラップを使いません。それは演奏中にギターを自由自在に動かすため。彼らが演奏する姿を見ていると、ギターがまるで打楽器というか、身体の一部に見えてきませんか。


ちなみに、こちらはフランス製作のドキュメンタリーその名も「Rumba de Barcelona(バルセロナのルンバ)」からの映像です。

dimecres, 10 de març del 2010

ルンバ講座2『バルセロナのヒターノ』

 こうして海を渡ってやってきたキューバのルンバが、1940 年代半ばのバルセロナでついにスペインのフラメンコと運命の出会いを果たします。

 フラメンコというと、メランコリックな旋律をかき鳴らすギターとかすれた声の力強いボーカルをバックに、鮮やかな衣装を纏った女性が情熱的に踊るシーンを思い浮かべる方も多いと思います。ところが、フラメンコというのはヒターノの音楽全般を指す総称のようなもので、その中でブレリア、タンギーリョなど何十種類ものジャンルに別れています。そして、
このようにバラエティ豊かなフラメンコをジャンルに関わらず演奏することで、ヒターノのギタリストはギターで複雑なリズムを操る技術を身に付けていくのです。
 
 フラメンコの影響でもともとリズムに敏感なヒターノが、外からやってきた全く新しいリズムに興味をそそられるのは当然と言えば当然の話で、なんとかそのリズムを自分たちの音楽に取り入れようと試行錯誤を繰り返します。そうこうするうちに、当時のバルセロナでラテン打楽器などが入手不可能だったという状況も手伝って、フラメンコの楽器と演奏技術を使ってキューバのルンバのリズムを再現することを思いついた人が現れ…。こうして生まれたのが
ルンバ・カタルーニャ。ヒターノのギタリストたちに、こうした複雑なリズムを操る高度な演奏技術がなければ、ルンバ・カタラーナは生まれてなかったかもしれません。
 
 バルセロナにいくつもあったヒターノ居住区の中で、
ルンバ・カタルーニャの誕生に深く関わったとされているのが、旧市街にあるポルタル地区(現ラバル)、バルセロナ中心街の北東にあるグラシア地区、そして中央駅サンツの近くにあるオスタフランチ地区です。『ルンバの父』と呼ばれるEl Pescailla エル・ペスカイーリャことアントニオ・ゴンサレスはグラシア地区のフラメンコ一家に生まれました。フラメンコのギタリストとしても有名だったペスカイーリャの素晴らしい演奏をお楽しみください。



ペスカイーリャがギター一本で繰り出すリズムの豊かなことと言ったら!! 
フラメンコの歌手としても踊り手としても超一流だった妻ローラ・フローレスと共演した映画のワンシーンから。二人の息がぴったりで、歌も踊りも演奏も全てが素晴らしい大好きな映像です!!
ちなみに、日本でも有名なスペイン人映画監督ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』に女性闘牛士役で出演していたロサリオは二人の娘。

dijous, 4 de març del 2010

ルンバ講座1『キューバとカタルーニャを繋いだ男』

Rumba Catalana ルンバ・カタラーナとはまさしく「カタルーニャのルンバ」の意味で、中央アフリカで生まれたルンバがキューバ経由でカタルーニャに辿り着き、そこでフラメンコの要素と混ざり合った結果生まれた第3のルンバです。 
キューバのルンバが、海を越えて主にバルセロナに住むヒターノの元に届いたルートは大きく分けて二つ。

1.行商を営むヒターノの中には、商売のためにラテンアメリカまで足を延ばす者がいた。(ペレも行商で生計を立てていた時代にアルゼンチンに行っています)

2.経済的に成功したヒターノの中には、劇場やホールに足を運んで、バルセロナに公演に訪れるラテンバンドと交流を持つ者もいた。

第2のルートで大きな役割を果たしたと言われているのが、カタルーニャ系キューバ人Xavier Cugat チャビエル・クガットです。
カタルーニャ生まれたクガットは、幼い頃に両親とともにキューバに渡りました。音楽好きな青年に成長したクガットは、バイリオン奏者としての成功を夢見てニューヨークに向かいますが、結局思いもかけない形で成功を収めることになりました。自らの名前を掲げたラテンバンドがアメリカの聴衆に熱狂的に受けいられたのです。彼らもアメリカで成功したラテンバンドの例に漏れず欧州ツアーに向かい、その際にバルセロナでも公演を行いました。

同郷人クガットが率いるバンドの公演は、バルセロナの聴衆たちにラテン音楽をさらに身近なものに感じさせたことでしょう。『ルンバ・キング』とも呼ばれるクガットの演目にルンバがなかったわけなどなく、この新しい音楽に夢中になったバルセロナのヒターノたちが、アフリカのルンバともキューバのルンバとも全く異なる新しいルンバが生み出すことになるのです。


バルセロナのヒターノたちを夢中にさせたのはこんな演奏だったはず。
あえて説明する必要もないと思いますが、白いダブルのスーツを来ているのがクガットです。最後にちらっとバイオリンを手にしているのが映りますよね。ちなみに彼はハリウッドスターの似顔絵でも有名だったそうで、この映像の中に出て来る絵は彼の手によるものです。