dimarts, 4 de maig de 2010

ルンバ講座7『ルンバ自主組織FORCATその1』

現在のバルセロナのルンバ・シーンがとても興味深いのは、ルンバを愛する人々の手でルンバの未来を作っていこうという動きがあることで、その中心となっているのが通称FORCAT
(FOMENT DE LA RUMBA CATALANA/ルンバカタラーナ振興協会)という組織です。

ということで、ルンバのファン・ジン『Santa Rumba vol.1 』に掲載された記事を使って、ここまでの動きをご紹介したいと思います。

ルンバを巡る新たな協力関係の試み(上) マルティ・マルファ

ミュージシャンのみならずルンバに関わる人々が幅広い層から参加した第1回ルンバ・カタラーナ・シンポジウムの開催からすでに一年が経過した。それ以降の動きを追ってみよう。

ルンバのために力を合わせるという口実で、疲れを知らないルンバの外交官チャルリー・ブラウンことカルラス・クロザは、主要なルンバのミュージシャン、プロモーター、ジャーナリスト、研究者、愛好家などを一同に集めることに成功した。

この集まりは、新しい人間関係を作る出会いの場というだけでなく、ルンバ・カタラーナをのさらなる発展を促し、社会や行政機関にその存在を認めてもらうことを目指して、共同でプロジェクトを進めて行くための下地を作る場でもあった。というのもその先には、ルンバ・カタラーナのためのプラットフォームを設立し、ルンバに関わる人々が共に活動するための組織を設立する礎となるマニフェストを作成・承認するという目的があったからだ。

その後数ヶ月に及ぶ議論と準備作業を経て、2009512月にFORCATが正式に発足する。この新組織は、組織内部を固めるためにさらなる時間を費やした後、1213日ルンバの日の開催に合わせて公式に発表されることになった。「Diada de la Rumbaルンバの日」には、丸一日かけてルンバに関連する様々なワーク ショップやコンサートが開催され、そのどれもが無料で参加できるため、ルンバを知ってもらう絶好の機会となった。

こうした動きは比較的短期間に起こった出来事だが、意識的にルンバのために活動しようという動きは、もう少し歴史の長いもので、その始まりは80年代Gato Perezガト・ペレスにまで遡る。

グラシア地区のヒターノのお祭りでルンバを発見した70年代半ば、ガト・ペレスにはミュージシャンとしてすでに10年のキャリアがあり、今まで演奏してきたジャンルを考えると、彼は完全なアウトサイダーだった。また、パヨ(ヒターノの言葉でヒターノではない人を指す。ヒターノを指すカロと対で使用される)である上にアルゼンチン出身の彼は、 ジャズ・ロック・フォークを融合した『Ona Latinaラテンの波』と呼ばれるムーブメントの出身だったのだ。 

しかし時には、こうした表面上の距離が、客観的な幅広い視点から事象を捉えて、その価値を的確に測ることを可能にする。ガトはルンバの歴史に言及して、ルンバを理論付けしただけではなく、聴衆も行政機関も目を向けない状況の中で、ルンバを正真正銘のバルセロナの音楽として位置づけることで、ルンバに文化遺産としての価値があると明言したのだ。

彼と共にこうした地道な作業を行ったのが、80年代のルンバ・シーン史を作成したジャーナリスト、マルコス・オルドニェスや作家のフランシスコ・カサベヤ、そしてDJラグナンピサことジョルディ・ジルだ。しかし、こうした「活動家」たちによる活動はあくまでも個人的なもので、組織化された集団的な動きとなることはなかった。

フランコ死後の民主化の動きの中で、カタルーニャにはヒターノの組織が生まれたが、その計画表の中にルンバは含まれていなかった。その例外がグラシア地区のヒターノ組合で、彼らは80年代に地域の中で、ルンバというジャンルを打ち出したライブを月に2回開催しており、これが若い世代のミュージシャンを支援し、ルンバを庇護する役割を果たした。しかし、この時期にルンバのライブを企画しようと考えるライブハウスはほんの少ししかなかった。

グラシアの組合は、生演奏に対して市内のバルなどが今よりももっと寛容であった時代に、伝説的なグラシアのバル・ペチナやオスタフランクスのラス・カニャス、ラ・エラ通りのエル・サルチチョンやエル・バル・デル・トニなどが果たしてきたルンバ・シーンの核という役割を引き継いだのだ。

(その2はこちら

原文はルンバのファン・ジンSanta Rumba vol.1 に掲載されたMartí Marfà著「FOMENT DE LA RUMBA CATALANA

第1回ルンバ・シンポジウム後に行われたジャム・セッションの模様です。